なぜ成功しているビジネスが、最も売れている商品の価格をあえて下げるという、一見不可解な意思決定を下したのか。ビジネスの常識からすれば、収益の柱であるトップセラー商品の価格を維持、あるいは値上げすることはあっても、値下げは禁じ手とも言える一手だ。
本稿では、トップYouTuberヒカル氏が率いるD2Cブランド「ReZARD」が、圧倒的な人気を誇るシャンプーで断行した価格戦略を深掘りする。その裏には、データに基づき顧客の「声なき声」を拾い上げ、長期的な信頼関係を築くという卓越したビジネスモデルと、徹底した顧客中心の思想が存在した。
これは単なる値下げの物語ではない。データに基づいて主力商品の構造的欠陥を発見し、自社の成功モデルさえも破壊することで事業全体の成長を加速させるための、極めて実践的な戦略論である。
1. 成功の裏に潜む「見えざる課題」
ReZARDのシャンプー事業は、収益と成長という表層的な指標では成功の絶頂にあった。商品は「圧倒的に売れている」トップセラーであり、ブランドの収益を牽引していた。しかし、真の戦略家は成功の裏に潜む脆弱性にこそ目を向ける。ヒカル経営陣が着目したのは、輝かしい売上データでは覆い隠せない「静かなる顧客流出」という構造的欠陥であった。
ヒカルは経営の視点を、従来の「新規顧客の獲得」から「既存顧客の維持(解約率の低下)」へと大きく転換させた。ビジネスにおいて、顧客一人ひとりが長期的にブランドにもたらす価値をLTV(顧客生涯価値)と呼ぶが、解約率を抑えて顧客を維持することは、LTVを最大化し、極めて資本効率の高い成長を実現する上で最も重要な戦略である。
ReZARDの月間解約率は約10%。この数字が持つ意味は、2つの側面から分析できる。
- 業界比較での優位性: 一般的なD2C事業の平均解約率が20%〜25%であることを踏まえると、ReZARDの製品がいかに顧客から高く評価されているかが分かる。この数値は、製品品質が優れていることの客観的な証左と言える。
- 経営上の課題: しかし、顧客基盤が5万人規模になると、この数字は看過できない問題へと変わる。単純計算で、年間5〜6万人もの顧客が離脱していることになるのだ。これはまさに「穴の空いたバケツ」で水を運び続けるような状態であり、どれだけ新規顧客を獲得しても、顧客基盤が安定的に積み上がらないという構造的な経営課題であった。
この「静かなる顧客流出」の根本原因を解明することこそが、事業を次のステージへ引き上げる鍵であった。経営陣は、データと顧客の声に深く耳を傾けることから分析を開始する。
2. 顧客の「声なき声」が示した3つの真実
当初、経営陣は解約の主な理由を「価格」だと考えていた。しかし、データと顧客からのフィードバックを深く分析した結果、問題はより複雑で、顧客が製品を使い続ける体験(カスタマージャーニー)の中に潜んでいることが明らかになった。顧客が解約、あるいは定期購入サイクルを延長する背景には、3つの具体的な問題点が存在したのだ。
価格の問題: 1本4,000円超という価格は、最高級の成分を考えれば妥当であるものの、消費者目線では継続購入の心理的・経済的なハードルとなっていた。ヒカル氏自身も「お金持ちになる前の感覚だったら高いシャンプーに入る」と認めており、価格が一部の顧客を遠ざけていた可能性は否定できなかった。容量の問題: 「節約せずたっぷり使えるように」という開発思想から生まれた大容量ボトルが、特に一人暮らしのユーザーにとっては逆に「多すぎて使いきれない」という問題を引き起こしていた。この「多すぎて使いきれない」という問題は、サブスクリプションの利用サイクルデータによって客観的に裏付けられていた。実に顧客の50%が3ヶ月サイクルを選択しており、毎月配送を選んでいたのはわずか20%に過ぎなかったのだ。この消費ペースとの乖離が、結果的に定期購入を停止する引き金となっていた。パッケージの問題: ポンプ式のボトル、特に粘度の高いトリートメントでは、中身を最後まで使い切ることが困難だった。ReZARDのボトルは品質の可視化を意図した透明な容器だったが、これが裏目に出て、ポンプで吸い上げきれない液体が目に見えてしまうことで、顧客の「損した気持ち」を視覚的に増幅させていたのである。
これらの分析から導き出された結論は、課題の核心が製品の品質そのものではなく、価格、容量、パッケージという、顧客が製品を使い続ける上での「体験」にあるということだった。この発見が、常識を覆す解決策へと繋がっていく。
3. 常識を覆す革命的アイデア:「ボトル廃止」という一手
前章で明らかになった「価格」「容量」「パッケージ」という顧客の3つの不満をすべて同時に解決するために、ヒカル氏が提案したのが「ボトル容器を完全に廃止し、詰め替え用パウチのみで販売する」という、業界の常識を覆す革命的なアイデアであった。これは、顧客から最も多く寄せられていた「詰め替え用が欲しい」という要望に、最も抜本的な形で応える一手だった。
この「パウチ戦略」は、単なる製品変更に留まらず、顧客価値の向上とビジネスモデルの革新を同時に実現する、多面的なメリットをもたらした。
顧客価値の向上: 最大のコスト要因であった容器代を削減することで直接的な値下げを実現し、価格への不満に応える。さらに、中身を最後まで絞り出して使えるため、ボトルに残る液体を見て感じていた「損した気持ち」を完全に解消できる。ビジネス効率の劇的な改善: 特注ボトルの製造から納品までには6ヶ月ものリードタイムを要していたが、パウチに切り替えることで2〜3ヶ月へと劇的に短縮される。これは、事業の生命線である機動性を著しく向上させる、極めて重要なオペレーション改善である。経営リスクの低減: リードタイムの短縮は、単なる効率化ではない。6ヶ月という長いリードタイムは、一度の発注で4億から5億円規模という莫大な先行投資を必要とする硬直的なビジネスモデルを強いていた。パウチ戦略は、この巨大な運転資金を解放し、高リスクな需要予測から脱却することで、キャッシュフローを大幅に改善し、戦略的俊敏性を高めるという経営上のマスターピースであった。
この戦略は、顧客の不満を解消しながら、同時にビジネスモデルそのものを効率化・最適化する、極めて合理的なものであった。顧客と企業の双方にとってWin-Winの関係を築くこのアイデアを実現するため、ReZARDチームは製造工場との交渉に臨む。
4. 交渉の末の最終決断:「値下げは最強のプロモーションである」
優れた戦略も、実行されなければ意味がない。このアイデアの実現には、パートナーである製造工場の協力が不可欠であった。ReZARDチームは、単なるコスト削減に留まらない、より大きな顧客価値を創造するために交渉に臨んだ。
当初のシミュレーションでは、パウチ化によって「300円」の値下げが可能と算出されていた。しかし、ヒカル氏は顧客へのインパクトを最大化するため、「500円」という大幅な値下げにこだわった。これは、「ワンコイン」という消費者の心理に強く響く、価値を実感しやすい象徴的な金額だったからだ。
「300円でももちろん毎月の話なんででかいと思うんですけど、500円下がったらめっちゃ嬉しいじゃないですか」
交渉の末、残りの200円を製造工場との「切磋」として共有することで、この500円値下げは実現する。しかし、今回の戦略における最も重要な経営判断は、ここからであった。それは、「動画が公開されたこの瞬間から、まだ在庫として残っている既存のボトル製品の価格も500円値下げする」という、前代未聞の決断である。
通常であれば、既存の在庫を売り切ってから新価格の製品を販売するのがセオリーだ。しかし、ヒカル氏のD2C思想は全く異なる。
「値下げがプロモーションなんですよ」「値下げすることが広告費なんです」
過去の米の販売促進で得た成功体験から確信を得ていたこの哲学は、目先の利益を削ってでも「今この瞬間」に価値を還元する姿勢を示すことで、顧客の信頼と熱狂を一気に高めるための強力なマーケティング施策であった。これは、将来やむを得ず値上げが必要になった際に顧客の理解を得るための「信用の担保」を築く、計算された未来への投資でもあったのだ。
5. 結論:ヒカルの価格戦略から学ぶべき3つの教訓
ReZARDのシャンプー値下げ事例は、単なるインフルエンサー商品の成功譚ではなく、あらゆるビジネスに応用可能な普遍的な教訓を私たちに示してくれる。このケーススタディから得られる重要な教訓は、以下の3つに集約される。
キャッシュカウ(最も売れている商品)こそ、最も深く疑え成功は時として思考停止を招く。しかし、ReZARDの事例は、最も成功している商品にこそ改善の余地が眠っていることを教えてくれる。解約率や購買サイクルといったデータに現れる顧客の「声なき声」に耳を傾け、主力商品を絶えず改善し続けることこそが、長期的な成長の鍵である。顧客の不満は、ビジネスモデル革新の最大のヒントである「詰め替えが欲しい」「量が多すぎる」といった顧客からのフィードバックは、単なるクレームではない。それらは、ビジネスモデルの根幹にある非効率やコスト構造を破壊する最大のヒントである。ReZARDは、顧客の不満を起点に、最大のコスト要因であったボトルを排除し、サプライチェーン全体を最適化するアイデアに辿り着いた。意思決定を「物語」として発信する力を持つD2Cモデルの最大の強みは、顧客との直接的なコミュニケーションチャネルを持つことだ。ヒカル氏は、なぜ値下げをするのか、その背景にある課題意識や顧客への想いをYouTubeで透明性高く発信することで、「ビジネス上の決定」を「コミュニティのイベント」へと昇華させた。この意思決定のプロセスを物語として共有すること自体が、数億円の広告費にも勝る強力なプロモーションとなり、価格競争を超えた強い信頼とロイヤリティを構築する最高のマーケティングなのである。



